典型的誤解

 

Rafe Champion氏は、ポパーに対する10の大きな誤解を指摘している。参照: 小河原 誠訳『ガイドブック「ヒストリシズムの貧困」』(キンドル出版、2013年)。ここではそれを参照しながら若干の解説を加えておきたい。

 

0 論理と観察との混同。反証はたった一回の観察によってなされる(可能である)という誤解。

論理の世界では、言明Aをどれほど連ねようが、それはAということでしかない。つまり、A&A&A&A&...⇔Aということ。たとえば、「富士山は美しい」という言明をなんかい繰り返して言おうが、論理的にはただ一回、「富士山は美しい」と言ったことに等しいだけである。だから、ある主張Bに対して矛盾する言明(たとえば、言明A)がただひとつあれば、反証できることになる。反証言明をなん個も並べる必要はまったくない。言明ひとつで反証はできるのである。
 ところが、観察や実験や測定の世界では、ただ一回で十分だという話にはならない。それらにおいては、偶然の要素が混入してくる可能性を排除できないからである。たとえば、長さの測定ひとつをとっても、測定する度に結果が異なるというのはよくある。だから、ただ一回の測定をもってある結果──これは、たとえば言明Aとして表現される──を得たとは言えない。つうじょうは、なんかいも測定を繰り返して平均値をとって結果をえる。だから、ただ一回の観察で観察が成立したなどとは言えない。なんかいも観察を繰り返して、やっと特定の言明を得るのである。ここで、ただ一回の観察で反証ができるなどということは、この事態を覆い隠してしまうものである。
 こうしたことを理解していない人に対して、ただ一回の観察で反証ができるというのは、反証主義についての正しい理解を妨げるものである。

1 ポパー伝説。かれは一種の実証主義者であり、反証可能性基準とは意味にかんする規準である。

反証可能性は、もともと、経験科学とそうでないものとの境界(線引き)を設定するために提案されたものである。この点は以下の引用文を見れば明白であろう。

「……『経験』によってテストされうる体系のみを経験的として承認することにしよう。このような考察からは、境界設定規準としては体系の検証可能性ではなく、反証可能性を提案しようという考えが生まれてくる。換言すれば、われわれは、体系が経験的-方法的な道をつうじて決定的に肯定されることを要求しはしないが、しかし、その体系が、その論理的形式からすれば、方法的テストの道をつうじて否定されうることは要求する。経験的-科学的体系は経験において挫折しうるのでなければならない。」(邦訳『科学的発見の論理』邦訳49ページ。訳文は筆者。)

意味について語っているのでないことは明白であろう。そもそもポパーは意味の哲学者などではないのである。この規準をかりにも有意味性の規準とすると背理が生じてしまうことについては、小河原 誠『反証主義』(東北大学出版会、2010年、62-4ページ)に詳しい。

また、日本においてこの種の誤解をしている人物に対する批判としては、 小河原 誠「ポパー受容史に見られる歪みについて」(小河原 誠編『批判と挑戦』未來社2000年)を参照されるのがよい。

 

2 「反証は決定的ではありえない」。これはしばしばデュエム問題に言及しながら、ポパーに対する批判として提起された。

3 反証可能性(これは論理的形式のことがらである)と反証(これは認識実践上の問題である)を〔ポパーは〕区別し損ねているという誤り。

4 「科学者は、反証を実践していない」。

5 科学は、反証主義の影響下では停止せざるをえないだろう。

6 ポパーのアプローチは静態的で、非歴史的であり、「正しい」方法に凝り固まっていて、科学の社会的文脈を説明しえていない。

7 知識は推測にすぎないという理論は、(われわれが必要とする)正当化された信念を提供できないのであり、したがってわれわれは帰納から離れることはできない。

8 知識は推測にすぎないという理論に対するもうひとつの反論は、技術からの道具主義的反論である。

9 ポパーによる真理接近度の理論が失敗したことは、かれの全プログラムを掘り崩した。

10 批判的合理主義や実証主義は、社会的政治的現状を批判し改革する足場を提供しない(ハーバーマス)